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震災復興と戦後復興

震災を経験した方々への特に心的サポートということを考える際に、いつもふと思うことは、戦後の日本がどうだったかということです。 各地で大空襲があり、原爆が落とされ、沖縄のような「悲惨」という言葉では表しきれないくらいの状況に置かれた土地もありました。父や兄は戦地へ駆り出され、女性や小さな子どもたちは疎開で見知らぬ土地に行き、家族がばらばらになったまま二度と会えなかった人たちもたくさんいたわけです。 しかし、日本各地が「被災」した状態でしたし、現在のような心的ケアといった視点も無かった時代ですから、ある意味、みんな放ったらかしだったはずで、子どもたちの心の傷は、どうやって癒やされていったのだろうと思います。 他ならぬ私の父親も戦中派ですので、父の人間形成において戦争が及ぼしたところの影響は大きかったと思います(別に父の人間性に欠陥があるという意味ではありませんが、戦争を経験していなかったら、もっと違う人間になっていただろうと思うという意味です)。現在の日本社会は、そういう人たちが中心になって造り上げてきたものであるわけです。今になって様々な歪みが出てきていると言えなくもありませんが、でも他の国々がうらやむほどの発展を遂げてきたということを否定する人はいないと思います。 戦争と自然災害とでは、根本的に質が違うのかも知れません。しかし、住む家を追われ、生活を奪われた人たちが、復興を目指して歩んで行くというプロセス自体は同じなのではないかと思います。 だから、震災を経験した人たちに対するケアが必要ないとは言いません。ただ、支援を行なう上では、何を問題とするのか、どこを(ゴールとして)目指して支援を行なうのかというそもそも論的なところを明確にすることが不可欠だと思います。 単に、大変なことを経験し、まだ元の生活に戻れていないから、コミュニティーに歪みが生じ、不登校の子どもたちが増えているので支援が必要だと言うだけでは、支援が形骸化してしまうことを危惧しています。

とびだす100通りのありがとう

「とびだす100通りのありがとう」というミュージカルを収録した映画の上映会に行って来ました。 これは、震災の約1年後の2012年3月18日に銀座で上演されたミュージカルを映像に残したもので、震災から3年、本公演から約2年が経とうとしている今年、映画化されたものでした。 ことの始まりは、2011年7月。音楽家のてらもとたておさんが、宮城県で震災の被害に遭った方からある話を聞きました。それは、様々な支援を受ける中で、このまま人から助けてもらうだけで良いのだろうか、何らかの形で感謝を表すことができないだろうかと思っているという話でした。じゃぁ、その気持ちを音楽に乗せて表現してみたらどうかということで、ミュージカルの話が持ち上がったと言います。 約半年後の2012年の元旦から約1週間かけ、てらもとさんは連日の徹夜で台本を書き上げました。その後まもなくして「シロウト以下」の一般市民有志約100人による練習が始まりました。 練習場所としてようやく借りられたのは、暖房設備の無い体育館だったそうです。そして、とにかく経験の無い人たちだったため、最初は声を出すことすらできなかったとか。しかし厳しい練習を重ね、なんと初練習から約2ヶ月後に本公演を迎えたのです。 各地で話題になったにもかかわらず、公演は1日のみであったため、 映画化を望む声が高まる中、ついに今年、上映される運びとなりました。 ステージは約2時間。石巻市を中心とする宮城県下の被災者112名(小学生から80代の高齢者まで)が舞台に上がり、それぞれが自らの体験を語り、歌とダンスを交えながら、震災の日の体験、避難生活の様子、そして今後の展望などを紹介していきます。要所要所に出てくるのが、被災後の生活を支えてくれた人たちへの感謝の言葉。 また、そもそも宮城県とはどういう場所なのかを紹介する時間もありました。特産品の紹介であったり、サンマ漁の実際やササニシキができた所以となる昔話であったりと、いわゆるお国自慢でしたが、それだけのものが失われてしまったのだという悲しい現実が強調されているように感じました。 また、ところどころに出てくる、ある意味ブラックなユーモアは、観る人の心をさらに強く掴んだと思います。避難所での生活を通して8キロ痩せたが、配付された食べ物の中には甘いものが多かったので15キロ太ったと...

イスラエイドの東日本支援

東日本復興支援事業において、ADRA Japan がパートナーとして共に教育支援をしている イスラエイド(IsraAID) というイスラエルのNGOの 事業報告会(Facebook上では「追悼式」と紹介されています) に行って来ました。 震災4日後から東北での活動を開始したというこの団体。主な活動として、PTSD予防活動や被災者体験談アーカイブプロジェクト、次世代育成事業などを行なっています。 今回私が参加したのは、上記の2つ目、被災者の証言や体験談を動画として記録する活動の報告会(追悼式)でした。 Voices of Tohoku というタイトルが付いたこのプロジェクト。基本は、被災者の方が、震災当日のことを振り返って話す体験談や、これまでの復興への歩みの中で感じてきたことなどを、動画で記録するというシンプルなものです。 1人当りの取材時間がどのくらいなのかは分かりませんが、ほんの数分の動画の中に、その人の「声」がしっかりまとめられています。 それもそのはず、このプロジェクトには、日本語で口述歴史とも訳されるオーラルヒストリーの専門家も関わっていて、アカデミックな立場からもきちんとフォローがなされているんです。 震災から時間が経過する中で、被災地の方々が最も恐れていることは、徐々にメディアにも採り上げられなくなり、世界の人々或いは日本の人々の記憶の中から、震災があったということ自体が忘れ去られていくことだ、という話を耳にすることがあります。 そういう中にあって、このようにきちんとした「声」としてまとめられたものが発信されていくということ。それは、非常に大切な支援の一つなのだと思いました。 このVoices of Tohoku についての簡単なパンフレットをもらったのですが、そこには、「東北の真の声をより多くの皆様に届けることを目的としています」ということが、はっきり謳われています。 物資支援なり何なり、他の支援をしていて、その流れで上記のようなことに気づいていくということではなく、最初から、このような支援が必要なのだということを認識しているということ。また、そのこと自体を目的にして活動を行なう勇気というか、先見の明というか、なんというか、それが非常に、敢えて安っぽい言葉で表現するうと「カッコイイ」なと思わされました。 震災後かな...

震災から7ヶ月

東日本大震災から7ヶ月。 これまでの歩みを振り返って、 宮城県山元町の社会福祉協議会が運営する ボランティアセンターが 動画を作成しました。 ADRA Japan の事業部長や 東北事務所のスタッフも 顔を出しています。 お時間があったら、どうぞ。

ケーブル局での活動紹介

ケーブルテレビ局 J:COM 制作の ボランティア紹介番組 「週刊ボランティア情報『みんなのチカラ』」で ADRA Japan の活動が紹介されました。 以下は、30分番組の 最後の10分間です。 よろしかったら、どうぞ。

ADRA Japan の活動

な~んか最近、 ブログを更新する余裕がなくてですね。 今日、自分でも久しぶりに このページを開きました。 そしたら、毎日律儀に チェックしてくださっている方々が・・・! ∑( ̄ロ ̄|||)なんと! 皆様のご期待に応えるためにも というほどの内容ではありませんが、 最近のADRA Japan の活動をまとめた 動画ができましたので、 ここにご紹介いたします。

ハイチの現状(5─仮設住宅)

なんだか落ち着かなくて、 ブログ、ずっと更新していませんでした。 でも、まだハイチのことを全部書ききっていないので、 もう少し続けさせてください。 ∑(=゚ω゚=;) マジ!? ハイチの震災後に 各国のアドラ支部の支援によって建設された 仮設住宅を見学に行きました。 (写真はすべてクリックで拡大します) 海沿いの砂浜の上に、 100世帯くらいでしょうか。 木造のまさに「仮設」の小屋が 所狭しと並んでいました。 すぐ近くには、発電所(多分、火力)があり、 環境的にあまり良い場所とは言えませんが、 でも、仮設住宅をあてがわれた人たちの中には、 もともと路上生活をしていたような人もいるようで 震災があって、かえって生活が向上した という人も少なくないようです。 海側は、すがすがしい感じの 景色が広がっているんですけどね。 仮設住宅には小さな窓が2つしかなく、 非常に風通しの悪い感じの建物でした。 雨がしのげるだけ良いのかも知れませんが 同じ人間の住む場所とは思えないくらい 日本の仮設住宅とは大きく違います。 これは、ソーラーパワーで充電し 暗くなると点灯するタイプの街灯です。 せっかくこういうものを配置してくれても ソーラーパネルを盗んで 売ってしまう人もいるということでした。 (この写真の街灯は大丈夫でしたが  他の場所に、実際に  パネルが外されているものがありました) そんな治安の悪い中にあっても、 ヤギの親子は、平和そのもの。 このヤギたちは、誰かが飼っているのか 単に住み着いているのか よく分かりませんでしたが・・・。

ハイチの現状(4─教育と医療)

ちょっとタイトルが大きくなってしまいましたが、 何てことはありません。 うらしぶちょうが見てきた 学校と病院のことについての レポートのみです。 ハイチのSDA大学の構内には、 もともと小学校から高校までが共存し 別々の校舎で勉強をしていたのですが、 震災で使えなくなってしまった建物が多く 仮設の教室で小学校から大学までの生徒たちが 時間帯を分けて授業をしているとのことでした。 この仮設教室は、 アメリカの学生中心のボランティアグループ 「マラナ・タ」が建ててくれたものだそうです。 きちんと数えませんでしたが、 恐らく50教室くらいあったと思います。 窓も充分に無く中も暗いですが でも机と椅子があって黒板があれば 授業はできますからね。 とりあえずでも何でも、 学校が始まるということは いいことだなと思います。 ただ、前日分にも書いたように この大学の構内には 避難生活を送っている人たちがたくさんいて 必ずしもSDAの人たちではないということで 治安の問題が心配されており、 それを理由に子どもを転校させてしまう親が たくさんいたという話を聞きました。 国連の治安維持部隊が構内に24時間駐留し 治安維持を図っていますが、 ハイチの人に言わせると 「彼らは何もしてくれないよ」 ということなので・・・。 ちなみに、この日は、 スリランカから来た兵隊さんたちが 暇そうにしていました。 大学のすぐ隣には SDAの病院がありました。 ベッド数は、70床。 これから拡大工事を予定しているとのことでした。 震災直後は、怪我人が次から次へと運び込まれ 大変な状況だったとということです。 ここは、震災で手足を失った人たちのための リハビリセンターということでした。 何の地震対策も施されていない建造物が崩壊し、 その下敷きになってしまった人が 多くいたようです。 そう考えると、耐震強度偽造問題というのは、 改めて、やはり大きな事件だったなと思います。 人の命に関わることですから。

ハイチの現状(3─避難所)

SDAの大学が一時的な避難所 ・・・になるハズでしたが 震災から1年半経った今も まだテント生活の人たちがいて、 大学の構内に住み続けています。 こういうテントや掘っ建て小屋が 数百ありました。 住人に許可を得て中を見せてもらいました。 一体どこに寝るスペースがあるのだろう という感じですが、一家族平均5名くらいだそうです。 キャンパス内に神学科の教室があり 学生さんたちがいたので、話を聞きました。 (インタビューをしているのが石井支部長です) 学生の一部は、家がなくなってしまったので 教室に寝泊まりすることが許されているとのこと。 また、多くの学生が、昨年の震災以降 両親やスポンサーが仕事を失って 授業料を支払うことができず、 単位を取り終えても卒業することができそうもない ということで途方に暮れていました。 何らかの形で支援を求めていきたいと 話していました。 そんなに苦労して4年間勉強した後、 牧師になることができるのは ほんの一握りだということでした。 それでも神学を学ぶことをやめない彼らは ある意味、本物だなと思います。 少なくとも、就職するためだけの 学びではないということになりますから。 そんな話をしている周りには かわいい子どもたちがちょこちょこ 集まってきます。 この女の子、妙に親近感が・・・と思ったら、 男の子っぽい女の子という意味で、 自分の娘と同じだ!ということに気が付きました。 女の子らしい服を着せても それでも男の子に見えてしまうというのは こういうことなんだなと 客観的に考える機会が与えられました。 でも、純粋に、カワイイですよね。 (*^-^)

ハイチの現状(2─ラジオ局)

ハイチから帰ってきた後、なかなか ブログを更新している時間がありませんで 結局そのままタイに来てしまいました。 海外出張に出ると 出先では案外時間があることが多かったりします。 ハイチのレポート続けます。 SDA大学の構内にあるラジオ局を訪問しました。 (画像クリックで拡大します) きちんとした設備が整っています。 ここではSDAの番組を24時間放送している 専門のFMチャンネルがあるとのこと。 ハイチだからこそできることなのでしょうが、 それにしても、日本の状況とはかなり違います。 ラジオ局に連れて行ってくれた ADRAスタッフと一緒にパチリ。 左から、ADRAハイチの会計担当カーロ ADRAハイチ支部長秘書のカトリーン そしてラジオ牧師の・・・え~名前忘れました。 大学生だと思うのですが、 やたらに陽気なお兄ちゃんたちが 見送ってくれました。

ハイチの安息日

5月28日(土)の安息日は、 アドラハイチオフィスのすぐ近くにある 大学の構内の英語教会に出席しました。 フィリピン留学時代に出席していた AIIASの教会に似た雰囲気の教会でした。 生徒たちが手話の特別讃美をしています。 ん~、しかし、暑い中 3時間半じっと座っているのは なかなか忍耐の要ることでした。 時差ボケも手伝って、 睡魔に襲われまくりだし。 でも、地元の人たちって、 スーツをバリッと着込んでいるんですよね。 アフリカの人たちもそうだと 聞いたことがありますが、 黒人さんたちって 暑さを感じないのだろうかと思ってしまいます。 でも、そんなことはなくて、 みんな汗だくで参加しています。 こちらの人たちは 非常に保守的な信仰者だと聞きますが、 こういう服装にも表れたりするのでしょうか。 午後からは、 車で1時間くらい走ったところにある 繁華街の教会に行きました。 震災後、教会員の手で 応急処置が施された教会です。 かわいい子どもたちが 出迎えてくれました。 で、この教会で何があったのかって、 コンサートがあったんです。 コワイヤーのコンサートが。 それが、もう、すごいの何のって。。。 ちょ~盛り上がりまくりです。 どこが保守的なのか、という感じ。 iPhoneで動画を撮ったので 皆様にもお見せしたいのですが、 ちょっと今いる場所のネット回線が 遅すぎてアップロードできないので、 日本に帰ったらご紹介いたします。

ハイチの現状

昨日書いた内容に関連する写真を 数枚ご紹介いたします。 (写真はすべてクリックで拡大します) ハイチのSDA教団本部です。 なかなか素敵な建物でした。 幹線道路沿いにあるテント街。 多くの被災者は、震災1年半後の今もまだ このようなテントやバラックで暮らしています。 ハイチの地震では津波は来ませんでしたが、 建物がとにかく耐震設計ではないので もう本当にバラバラに崩れてしまっている所を よく目にします。 崩れたままの家の中で よく生活が成り立っているなと思います。 こちらが大統領ハウス。 こんな感じで崩れたままの姿が 町のど真ん中にド~ンとあります。 不気味な感じです。 国のシンボルなんだから、 一刻も早く直せばいいのに~ と思ってしまいますが、 国民の生活が第一だ!という アピールなのかな?と思ったりします。 アドラ・ハイチの倉庫です。 救援物資等は一度ここに運び込まれ、 被災者に届けられていたそうです。 大統領ハウスは崩れても、 アドラの倉庫はびくともしなかったという・・・。 まぁ、純粋に、耐震設計らしいのですが。 仮設住宅のモデルハウスです。 各地にこのような仮設住宅を 建設しているとのことでした。

宮城とハイチ

北浦での祈祷週、無事に終わりました。 皆様のお祈りに支えられたことを 実感した1週間でした。 どうもありがとうございます! 今週は、火曜日と水曜日に 被災地視察ツアーということで、 支援を考えておられる方々を 6名ほどお連れして 宮城方面に行ってきました。 ツアー参加者のうちの一人が 石巻で食事をしたことがあって、 そのお店がどうなっているのかを 見てみたいということで、 うらしぶちょうも今まで全く踏み込んだことのない 石巻市の様子を見に行きました。 被災地の様子をあちこち見て、 津波の被害のひどさを 知っているつもりでしたが、 石巻の被害状況は段違いでした。 これって、ほんと・・・? 言葉を失うばかりでした。 同行者の皆さんも、 他の場所ではパシャパシャ 写真を撮っていましたが、 石巻の惨状を目の当たりにし、 シャッターを切るのも忘れていた という感じでした。 その石巻でも、 かなり瓦礫などが片づけられてきたな という印象を受けましたが、 でも、「復興」ということになると 果たしてどのくらい先の話になるのか 皆目見当もつかないという感じです。 被災者の方々が守られるように 祈らずにはいられませんでした。 さて、宮城から帰ってきて翌日からは 1年半ほど前に大震災のあった ハイチに向かいました。 今は、ホテルの食堂でネットがつながるので テーブルを一つ占拠させてもらって PCをパカパカしています。 ハイチは、うらしぶちょうがフィリピンで行っていた スラム街の感じと似ているなと思いました。 ゴミがその辺に散乱している感じや、 ドブ臭い感じ、 そして、みんながとてもフレンドリーで 優しい感じが。 しかし、 震災後2ヶ月の宮城を見てきた その目でハイチを見ると、 震災から1年半とは思えないくらい 全くと言って良いほど、復興の気配が見えません。 大統領ハウスですら、崩れたままです。 世界各地から 支援の手が差し伸べられたハズなのですが、 一体誰がどこで活動したの? と聞きたくなるくらい 何も変わっていないのではないかと 思ってしまいます。 それなのに、住民たちが 底抜けに明るい感じがするのは 何かの勘違いなのだろうかと思います...

山元町での被害

5月4日付のYahoo!ニュースに 今、ADRA Japan が支援をしている 山元町のことが記事として掲載されていました。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110504-00000006-maip-soci この記事に出てくる方のお一人には うらしぶちょうも実際にお会いしました。 とても、こんな悲しい出来事を 経験された方とは思えないくらい、 明るく働いておられました。 しかし、自分の娘が行方不明になった状態で 一体、他の子どもの面倒など みることができるだろうかと 思ってしまいました。 少なくとも自分には そんなに心の広いこと、 絶対に無理だと思います。 前に進むしかない状況だと言えば そうなのかも知れませんが、 皆さん、本当によく やっておられるなと思います。 被災地の方々のために 毎日お祈りさせていただきます。

炊き出し

先週1週間は、 宮城県南部海沿いにある 山元町という場所で、 炊き出しのお手伝いをしてきました。 1週間と言っても、実際は5日間。 そのうちの2日は移動していましたので、 正味3日間でしたが…。 すでに現地入りしていた 6名のボランティアの皆さんと一緒に、 役場の職員の方々や 県外からのサポートで来ておられる 公務員の方々に提供する食事作りをしました。 朝昼晩の3食。 お昼、一番多い時で130食程度。 朝7時頃から夜10時頃まで、 15時間労働は、 3日間といえどもさすがに 厳しいものがありました。 足が棒になるというのは、 こういう状態を言うのだろうな、と。 普段の運動不足を思い知らされました。 前回仙台に来たときにも思いましたが、 今回も、ボランティアで来ている方々の 意識の高さに驚かされました。 特に、関西近辺から2人の女性が来ていたのですが、 阪神淡路の時に、中学生くらいで 日本中の人たちに助けてもらったので、 今度は自分が何かさせてもらいたいと思って 参加したと言っておられました。 以前に受けた恩を忘れないということは とても素敵なことだと思います。 夜は、炊き出しボランティアの皆さんと一緒に 芝生の広場に設営したテントの中に寝ました。 夜は、氷点下までにはならないものの、 一桁台まで下がるので、 高級毛布を1人4枚使って良いという ありがたい話をいただき、 ふかふか毛布の間にサンドイッチになって寝ました。 寝返りをうつと、上掛けにしていた毛布が落ち、 そのたびに寒くて目が覚めはしましたが。 山元町では、 まだまだたくさんの町民の皆さんが 避難生活を送っておられます。 役場職員の方の中にも被災者がおられます。 ある方は、津波で家を失いました。 「家が流されちゃったから  毎日同じ服なんですよね」 って、明るい顔で言われても、 どう反応して良いか分かりません。 またある方は、 津波でお子さんを亡くされたのですが、 それでも笑顔で働いておられました。 うらしぶちょうも、娘を持つ身として 同じ立場に立たされた場合、 一体どのような気持ちになるのだろうと 一生懸命に想像してみました。 やらなければならない仕事が目の前にあ...

無事に戻りました

東京から運んだ物資を 4箇所の福祉施設に配布して回りました。 最初に行った東松島市のある地域は 家々は無事で残っているものの 海のほうから流されてきた 瓦礫やヘドロなどで 住宅の1階部分が住める状態ではないお宅が たくさんありました。 水道が通り始めたようで、 家具や車を水で洗っておられる方を 多く見かけました。 しかし、この押し寄せてきたヘドロ。 自動車のタイヤに付いたら いつまでもペッタンペッタン音がして 普通の泥とは明らかに質が違いました。 こういう物体を片付けることの大変さは ちょっと想像できません。。。 また、登米(とめ)市にも行きました。 こちらは、地震による被害が多く見られました。 比較的年数の経った建物には 黄色の「要注意」や赤の「危険」と書いた 紙が貼られている所がありました。 赤い紙が貼られた建物を使って 八百屋を営んでいる男性もいましたが。 それしか選択肢が無い! ということなのでしょう。 また、1階部分が斜めに崩れて 建物自体が道路に 飛び出してしまっている家 などもありました。 訪問した福祉施設で お聴きしたところによると、 やはり燃料が一番 不自由しているとのこと。 最近は、1時間くらい並べば ガソリンが手に入るようになってきたと 話しておられましたが、 仙台市内ではまだまだ 12時間待ちなどもザラだとか。 この、燃料の流通が 1日も早く元通りになることを 祈らずにはおれませんでした。 4件回って思ったことは どの施設でも、職員の皆さんが 明るい顔で頑張っておられる ということでした。 職員の方自身も被災者なのです。 それでも、もっと弱い立場の人を守るために 支援を仰ぎながら頑張っておられます。 こういう人たちのパワーは 一体どこから来るのだろうと 思わされます。 誰かのために一生懸命になれるということが 人間を強くするということなのでしょうか。 帰りの東北道は 最近通れるようになった一般車の姿も多く 普段の平日ではあり得ないくらいの 交通量がありました。 福島県を通過中、 恐らく原発から最も近い辺りを通る際、 激しい雨に見舞われました。 PAで雨に濡れたとき、 放射能のこともちょ...

仙台に着きました

原宿を出てから約5時間半。 東北道を走って、 無事に仙台に到着しました。 東北道、福島県に入ってから、 ところどころ、地震による亀裂が入り そこを簡易で修繕した跡があり、 「段差注意!」状態。 最高速度も80キロに制限されています。 サービスエリアのガソリンスタンドは、 北に進めば進むほど行列が長くなる感じ。 でも、在庫切れで閉店という場所は ありませんでした。 この辺も、徐々に 流通が改善されてきているようです。 今夜は教会に泊めていただきます。 今、ここにADRAのスタッフと ボランティアの方々が滞在しておられます。 スタッフの皆さんはもちろんのこと、 ボランティアで来ておられる方々も 本当に経験豊富な方々で、 非常に頼もしい限りです。 教会に着いて早速、 地震に歓迎されました。 そしたら、みんな、今のは「5」かな。 「6弱」じゃない? などと震度の当てっこをしています。 ハッキリ言って、余裕です。 正解は「4」でしたが…。 (T▽T)アハハ! それにしても、 皆さん普通に海外経験豊富な方々で どこへ行っても、 うらしぶちょうが一番何も知らない感じ。。。 これから学びます。 "\( ̄^ ̄)゙ハイ!! 仙台駅周辺では、 コンビニにもおにぎりやお弁当が 充分に入ってくるようになっているようで、 個数制限なく購入できるくらいの 状況のようです。 ただ、これは首都圏でも同じことですが、 ペットボトル入りの水などは ほとんど手に入らない状況は 変わらないようです。 津波による被害を受けた場所以外においては、 徐々にですが、日常が戻りつつある という感じでしょうか。 仙台駅前の通りなどは、 横浜の街中なんかよりも よっぽど明るい状態ですし。 でも、ビルの壁のタイルが 剥がれ落ちていたりするのを目にすると、 揺れの大きさを実感する思いです。 明日は、津波の被害を受けた場所にも 足を運んでみる予定です。

福島教会からの便り

今回の大震災の被災地の一つである 福島市にあるSDAの教会から メールが届きました。 発信者は、教会牧師の中野先生です。 ちょっと長いですが、 心から感動してしまったので、 先生からのメールを以下に転載いたします。    ◇   ◇   ◇ 福島教会の中野です。 ようやくネットが今、つながりました。 3月16日、16:45です。 被災しましたが、大丈夫ですよー。 元気にやっていますよー。 福島教会は現在、 12名の方々が避難されてきています。 教会員のお友達や教会員です。 みなさん、津波の被害、原発の避難勧告で こちらまで命からがら逃れてきました。 津波を横に見ながら、必死に 山の方面に向かって車を走らせた方もおられます。 原発の事が沢山報道されていますが、 こればかりはわたしたちの範疇を超えています。 報道を聞いていると 「息をするな、外に出るな」 と言っているように思えます。 しかし、わたしたちは至って元気です。 とにかくみんなで励まして、 連絡を取り合って、 協力し合って頑張っています。 福島教会も未だ水は通っていません。 しかし、アドラや教団の救援部隊が来てくれました。 涙がでるほどうれしかった。 この物資で、近隣の方々に水を分け、 食料を届けることができました。 しかし、まだ食料は整っていません。 多くの被災地が 燃料、水、食料、人手を必要としています。 福島市、福島県郡山、福島県須賀川に、 福島県の海沿いの被災者たちが避難してきています。 まだまだ寒いので、燃料がとにかく必要です。 しかし、祈りというのは本当に力になります。 わたしたちを見ていてくださる方に祈り、 ともにいてくれるように願い、聖霊が使わされて、 ふっと「あ、今、安心している」という、 ものすごい安心感が与えられます。 不思議なことですが、 今わたしと妻が経験している事実です。 神が私たちのために働いてくださっています。 物資は底をつきません。 ホントに、この状態が一ヶ月続いたら、 と不安がっている人が沢山いますが、 その人の所に、少しずつですが、 ものを分けてあげられるだけは備えられました。 しかし、足りない事実は残ります。 それは事実ですが、これからのこと...