先週1週間は、
宮城県南部海沿いにある
山元町という場所で、
炊き出しのお手伝いをしてきました。
1週間と言っても、実際は5日間。
そのうちの2日は移動していましたので、
正味3日間でしたが…。
すでに現地入りしていた
6名のボランティアの皆さんと一緒に、
役場の職員の方々や
県外からのサポートで来ておられる
公務員の方々に提供する食事作りをしました。
朝昼晩の3食。
お昼、一番多い時で130食程度。
朝7時頃から夜10時頃まで、
15時間労働は、
3日間といえどもさすがに
厳しいものがありました。
足が棒になるというのは、
こういう状態を言うのだろうな、と。
普段の運動不足を思い知らされました。
前回仙台に来たときにも思いましたが、
今回も、ボランティアで来ている方々の
意識の高さに驚かされました。
特に、関西近辺から2人の女性が来ていたのですが、
阪神淡路の時に、中学生くらいで
日本中の人たちに助けてもらったので、
今度は自分が何かさせてもらいたいと思って
参加したと言っておられました。
以前に受けた恩を忘れないということは
とても素敵なことだと思います。
夜は、炊き出しボランティアの皆さんと一緒に
芝生の広場に設営したテントの中に寝ました。
夜は、氷点下までにはならないものの、
一桁台まで下がるので、
高級毛布を1人4枚使って良いという
ありがたい話をいただき、
ふかふか毛布の間にサンドイッチになって寝ました。
寝返りをうつと、上掛けにしていた毛布が落ち、
そのたびに寒くて目が覚めはしましたが。
山元町では、
まだまだたくさんの町民の皆さんが
避難生活を送っておられます。
役場職員の方の中にも被災者がおられます。
ある方は、津波で家を失いました。
「家が流されちゃったから
毎日同じ服なんですよね」
って、明るい顔で言われても、
どう反応して良いか分かりません。
またある方は、
津波でお子さんを亡くされたのですが、
それでも笑顔で働いておられました。
うらしぶちょうも、娘を持つ身として
同じ立場に立たされた場合、
一体どのような気持ちになるのだろうと
一生懸命に想像してみました。
やらなければならない仕事が目の前にある時に、
それに打ち込むことなどできるのだろうか。
ふさぎ込んでしまうだけで、
仕事に手を付けること自体
無理なのではないだろうか。
そう思ってしまいます。
かえってやることがあるからいいのではないか
という意見もありますが、
そんなに生易しいことではないように思います。
仕事場に毎日来るというだけで、
心から尊敬します。
そして、町民の皆さんは、
我慢していることもたくさんあるでしょうに、
本当に優しくて、明るくて、
その雰囲気にこちらが癒されてしまいました。
しかし、そんな中で起きた
4月7日(木)夜中の大きな余震。
うらしぶちょうは、
テントの外で歯を磨いていたのですが、
ん?電車が走ってきた?
と思うような、ドドドという音が近づいてきて、
ダッダッダッとひたすら縦揺れだった気がします。
震度6弱だったようですが、
さすがに、ふらつきました。
しばらく揺れて、またまた停電。
町の皆さんは、恐怖というよりは、
むしろ、怒りを感じておられます。
「これから復興…という時に、またこれかよ!
いい加減にしろ!」
そんな、やり場のない怒りを
心の底から感じておられる、
そんなふうに見えました。
これからの支援は、物資を送ったり
炊き出しをしたりということではなく、
自分の感情を整理することすらも難しい方々の
お話に耳を傾け、共に涙し、
寄り添って生きるということなのではないかと
思わされました。
と、ちょっと、よく分からないまとめですが、
そんなことを感じて帰ってきました。
マスコミの非常に部分的な報道を見る限り、
まだまだ物資が足りないと思わされますが、
実際には、余剰が出始めています。
山元町でも、
全国からの支援物資がどんどん集まり、
例えば、ランドセルに関しては、
今後数年分の新入生に配布するくらいの数が
届いてしまっているということです。
単に物資を送るということではなく、
現場で何が必要とされているかを
見極めていく作業が不可欠だと思います。
そのことも含めて、全国の皆様には、
まず、祈っていただけたら幸いです。
お一人お一人の心が守られるように。
また、現地で働くスタッフに
正しい判断力が与えられるように。
宮城県南部海沿いにある
山元町という場所で、
炊き出しのお手伝いをしてきました。
1週間と言っても、実際は5日間。
そのうちの2日は移動していましたので、
正味3日間でしたが…。
すでに現地入りしていた
6名のボランティアの皆さんと一緒に、
役場の職員の方々や
県外からのサポートで来ておられる
公務員の方々に提供する食事作りをしました。
朝昼晩の3食。
お昼、一番多い時で130食程度。
朝7時頃から夜10時頃まで、
15時間労働は、
3日間といえどもさすがに
厳しいものがありました。
足が棒になるというのは、
こういう状態を言うのだろうな、と。
普段の運動不足を思い知らされました。
前回仙台に来たときにも思いましたが、
今回も、ボランティアで来ている方々の
意識の高さに驚かされました。
特に、関西近辺から2人の女性が来ていたのですが、
阪神淡路の時に、中学生くらいで
日本中の人たちに助けてもらったので、
今度は自分が何かさせてもらいたいと思って
参加したと言っておられました。
以前に受けた恩を忘れないということは
とても素敵なことだと思います。
夜は、炊き出しボランティアの皆さんと一緒に
芝生の広場に設営したテントの中に寝ました。
夜は、氷点下までにはならないものの、
一桁台まで下がるので、
高級毛布を1人4枚使って良いという
ありがたい話をいただき、
ふかふか毛布の間にサンドイッチになって寝ました。
寝返りをうつと、上掛けにしていた毛布が落ち、
そのたびに寒くて目が覚めはしましたが。
山元町では、
まだまだたくさんの町民の皆さんが
避難生活を送っておられます。
役場職員の方の中にも被災者がおられます。
ある方は、津波で家を失いました。
「家が流されちゃったから
毎日同じ服なんですよね」
って、明るい顔で言われても、
どう反応して良いか分かりません。
またある方は、
津波でお子さんを亡くされたのですが、
それでも笑顔で働いておられました。
うらしぶちょうも、娘を持つ身として
同じ立場に立たされた場合、
一体どのような気持ちになるのだろうと
一生懸命に想像してみました。
やらなければならない仕事が目の前にある時に、
それに打ち込むことなどできるのだろうか。
ふさぎ込んでしまうだけで、
仕事に手を付けること自体
無理なのではないだろうか。
そう思ってしまいます。
かえってやることがあるからいいのではないか
という意見もありますが、
そんなに生易しいことではないように思います。
仕事場に毎日来るというだけで、
心から尊敬します。
そして、町民の皆さんは、
我慢していることもたくさんあるでしょうに、
本当に優しくて、明るくて、
その雰囲気にこちらが癒されてしまいました。
しかし、そんな中で起きた
4月7日(木)夜中の大きな余震。
うらしぶちょうは、
テントの外で歯を磨いていたのですが、
ん?電車が走ってきた?
と思うような、ドドドという音が近づいてきて、
ダッダッダッとひたすら縦揺れだった気がします。
震度6弱だったようですが、
さすがに、ふらつきました。
しばらく揺れて、またまた停電。
町の皆さんは、恐怖というよりは、
むしろ、怒りを感じておられます。
「これから復興…という時に、またこれかよ!
いい加減にしろ!」
そんな、やり場のない怒りを
心の底から感じておられる、
そんなふうに見えました。
これからの支援は、物資を送ったり
炊き出しをしたりということではなく、
自分の感情を整理することすらも難しい方々の
お話に耳を傾け、共に涙し、
寄り添って生きるということなのではないかと
思わされました。
と、ちょっと、よく分からないまとめですが、
そんなことを感じて帰ってきました。
マスコミの非常に部分的な報道を見る限り、
まだまだ物資が足りないと思わされますが、
実際には、余剰が出始めています。
山元町でも、
全国からの支援物資がどんどん集まり、
例えば、ランドセルに関しては、
今後数年分の新入生に配布するくらいの数が
届いてしまっているということです。
単に物資を送るということではなく、
現場で何が必要とされているかを
見極めていく作業が不可欠だと思います。
そのことも含めて、全国の皆様には、
まず、祈っていただけたら幸いです。
お一人お一人の心が守られるように。
また、現地で働くスタッフに
正しい判断力が与えられるように。