スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

1月, 2014の投稿を表示しています

VOXY 購入

牧師という職業柄、乗るんだったらやっぱりボクシーでしょ!と冗談ながらにも、半分真面目に考えてきたのですが、このたび晴れてVOXYのオーナーになることになりました。 わ~、(^-^)//""ぱちぱち 仕事を始め、普通車に乗るようになってからはずっとTOYOTAなのですが、ここ約10年はSIENTAに乗ってきました。いざという時には7人乗れること、スライドドア、燃費の良さ、シートアレンジの豊富さなどから、フィリピンに留学している時から狙っていました。ネットで調べまくって、帰国後、オプションはあれとこれとそれ!と注文をつけて、ポン!と買いました。 とても気に入っていて、今までずっと、他に買いたいと思う車がないという状態が続いていました。 それに加え、2年前にリコール対象であったことが発覚し、エンジンのオーバーホールをしてもらってからは、まるで新車のような快適さで、調子よく走っていました。 ところが、2人の子どもたちをそれぞれチャイルドシートに座らせ、どこかに泊まりがけで出かけようと思って荷物をある程度積み、(もう死んでしまいましたが)犬も乗せようとすると、どうしても手狭感が否めなくなってきました。 ルーフキャリアを付けるか、でも、そのためにはまぁまぁの投資をしなければならないので、車検を含めて今の車にいろいろとお金をかけるくらいだったら、 約10年+14万キロ乗ったことだし、次を考えても良いのかなと徐々に思うようになりました。 ところが、です。 車検や整備などでずっとお世話になっているTOYOTAで考えると、一回り大きい車というのは、NOAHかVOXYになるわけですが、ど〜しても妥協できなかったんですね。何がって、スタイリングが、です。 なんともカッコ悪いんです。特に2世代目のVOXY、それも後期型が、結構最悪レベルで。新車をタダでくれると言われても断るかも知れないくらいで、ましてや、まさか買うなどということはおよそ考えられませんでした。 そろそろモデルチェンジになりそうだし、いろいろオプションを付けて安くできますよとか、外見なんて中に乗っちゃえば関係ないですよ!とまでディーラーに言われ、試乗をさせてもらって、おぉなかなか良い車だねとは思いつつも、全く検討のテーブルにも乗らない状態でした。 一方で、NISSA

ミャンマーに来ています

出張でミャンマーに来ています。 東南アジアの国々は、これまでにタイ、インドネシア、マレーシア、ラオスを訪れたことがありますが、ミャンマーに足を踏み入れるのは初めてです。 国境を接しているタイやラオスに似ているところがたくさんあるなと思わされます。ですので、初めての国にしては、あまり初めての感覚がありません。 言葉はちょっと違うなと思いますが、でも、今の時代、だいたいどこに行っても英語が通じてしまいますので、あまり不便を感じません。 ただ、タイともラオスとも違うところが、携帯電話事情です。長く続いた軍事政権の影響なのかも知れませんが、普通にその辺のショップでSIMを買ってプリペイドカードでチャージという気軽な使い方ができません。 正確には、できなくはないのですが、30日という期間限定だったり、データ通信ができなかったりします。 まぁ、その分、どこへ行ってもWi-Fiが使えるのかなとも思うのですが、つまりそれはどういうことかと言うと、ホテルなどの拠点を離れると、スマホが使えないということなのです。 今回は、陸路を5時間くらい車で移動したのですが、その間、スマホがありません。一緒に車に乗っていた人たちとの話も、さすがに5時間はもちません。結果、なんだか随分久しぶりに、ボーッとする時間があったなと思います。 で、久しぶりにボーッとしてみて気づいたことは、過去のことをやたら思い出すということです。逆に、そういえば最近、過去のことを振り返ることが少なかったと思います。暇な時間は、自分のこれまでの過ぎ来し方を振り返る良い機会になるようです。 つまり、いつもスマホが使える日本にいると、過去の振り返りや、記憶の整理整頓をしているヒマがないということです。それって、人間にとっては大きなマイナスであると思います。 また、今夜は、月がとても明るかったです。でもスマホの画面に目を落として歩いていれば、月の明るさにだって気づきませんし、むしろそんなことどうでも良いことに思えてくるから不思議です。 時には携帯電話の電源を切る時間が必要だなと思わされました。

心の渇き

ここしばらく心が渇いていたなと思います。 そのことにふと気が付きました。 自分に余裕が無いなということは感じていたのですが、何故余裕が無いのかということについては、単に仕事が忙しいからだろうという理由で、自分自身を納得させていただけな気がします。でも、年末年始の休みを経ても、一向に回復されない何かがありました。 海外出張に出かける飛行機の中で、音楽でも聞こうかなと思いました。普段、飛行機の中ではクラシックを聴きながらPCのキーボードを叩いたりするのですが、今日は何となく中島みゆきの恨み節が聴きたい気持ちでした。しばらく聴いて、何となくスッキリしたような感じになりました。 他の曲も聴きたくなり、何となくタッチパネルのあちこちを触っていると、“ Mama Decafe 〜Love〜 ”というタイトルのアルバムが目に留まりました。解説文には、「出産を経験したママ・ミュージシャンたちプロデュースによる、リアル胎教の音楽アルバム。アーティストたちが妊娠中に聴いて心なごんだ曲を、ゆったりボサノヴァ調に編曲して歌唱。」とありました。 へぇ、と思って聴き始めると、おなかに赤ちゃんを抱えているお母さんの気持ちがちょっとだけわかったような気がしました。あ、こういう曲を聴いて、お母さんたちは心が和むんだ、と。 それらはいずれも、お腹の中の子を愛おしく思う気持ちが綴られた曲でした。誰かを愛おしいと思う気持ちになれると、妊娠生活自体は大変でも、心が和むものなのかなと思いました。 そして、ふと、自分の母親も、そういう気持ちになってくれたのだろうかと思いました。 その時思ったんです、あぁ、今の自分に足りなかったのは、これか、と。 それは、誰かから大事にされているという感覚。誰かから愛されているという感覚、です。 もちろん、母親からのそれはこれまでたっぷり受けてきたわけですが、究極的には、自分を超えた存在である神からのそれです。 『 偽りの神々 』という本を、人から紹介されて読みました。そこには偶像とは何かということが書かれていました。偶像とは、神によってしか満たすことのできない心の必要を、他のもので満たそうとする、その「他の」何かである、と。それは、財産かも知れないし、仕事の成功かも知れないし、恋愛や結婚相手、また子どもかも知れないというわけです。しか

厄年を迎えるに当たって

昨年2013年は、年当初の決意虚しく、その前の年にも増してブログを書くことのできない1年になってしまいました。これはつまり、自分の考えをまとめたり、自分に向き合ったりする時間を、それだけ確保できなかったということだと思います。その意味で、成長するどころか、退化している自分を見せつけられた気がします。 それもそのはず、昨年は私にとっての前厄だったんですね。 元来、そういう言い習わしのようなものは信用しないほうだったのですが、そうとでも思わないと、昨年の自分の状態について納得できないと思うくらい、何とも落ち着きのない日々を過ごしてしまったように思います。 で、その流れでいくと、今年は本厄。 やはり、ホルモンバランスの変化であったり、肉体の老化であったりと、これまで通りにはいかなくなる節目であることは確かなのだと思います。 というわけで、今年の目標は、「落ち着いて、今すべきことをする」という、小学生のような内容ですが、コレでいきたいと思います。 皆さんにとっての新しい年が、実り多きものとなりますように。