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11月, 2010の投稿を表示しています

ウリヤという人物について

教会のある長老さんが こんなことを言っておられました。 先週の安息日学校聖書研究ガイドで 取り上げられたウリヤという人。 この人の忠誠心が 当時のイスラエルの国を 救ったのではないか、と。 この人、国王に自分の奥さんを 寝盗られてしまったかわいそうな人です。 結果、奥さんは王の子を 身ごもってしまうのですが、 それを隠すために 戦場から独り呼び戻され、 家でゆっくり休むように 王から勧められます。 明らかに、妻との関係を持つように 勧められたというわけです。 で、長老さん曰く、 この状況において、 ん?何かおかしいぞ? と気づかないヤツはいない、と。 ウリヤは、恐らく 察しがついたのではないか、と。 それでも、つまり、何かおかしいなと思いつつも、 もしウリヤが、 王の言うとおりに家に帰り、 妻とゆっくり過ごしたとしましょう。 妻のお腹の子は、ウリヤの子だということを 誰も疑わなくなることでしょう。 そして、ダビデ王が 自分の犯した罪を告白し、 悔い改めることもないでしょう。 しかし、果たしてそれで おさまりがついただろうかというわけです。 ダビデ王の犯した罪は、 どこかで誰かの話題に上る可能性が高いのです。 ウリヤの妻が、 両親の呵責に耐えかねて 「実は・・・」と 話しだすかも知れません。 或いは、ウリヤ自身が、 ダビデ王に対する不信感を どこかで露呈する ということになるかも知れません。 そうなると、ダビデの家臣や息子たちが 恐らく黙っていないことでしょう。 あんなヤツをいつまでも のさばらせておくわけにはいかない という話に当然なるでしょう。 ですから、この意味において、 ダビデの計画がうまいこといって、 彼が自分の罪を隠しおおせていたとしたら、 イスラエルの国自体が 崩壊していたかも知れないというわけです。 でも、ウリヤは違いました。 彼は、たとえ王が罪を犯していたとしても、 (それを薄々感じていたとしても) 彼自身の、国に忠誠を尽くす姿勢は 何ら変わらなかったのです。 そして、王の勧めを拒んで、 家に帰ることはしませんでした。 その態度が彼自身を 死に追いやることになったわけですが、 しかし、その忠誠心が イエスラエルの国を救ったということなのです。 そういう内容のお話しでした。 すごく深い洞察ですね!と評価したら、 長老さん自身も、 ある日の朝、 ふと思い

類は友を呼ぶ

ある方から電話で相談を受けました。 「人生相談」ということだったので、 いらんに分かることかなと ちょっとドキドキだったのですが。。。 次のような内容でした。 自分の周りには 聖書に出てくるザアカイみたいな 友だちばかりがいる。 みんなプライドが高くて 他人の文句ばかり言っている。 自分も正直そんな人たちとは 付き合いたくないのだが、 それ以外に誰も付き合う人がいないので 寂しいのでついつい寄っていってしまう。 そして、後悔する。 ある日、ある人からこう言われた。 (その人はクリスチャン) あんたがザアカイみたいな プライドの高い人だから、 だから、そういう人ばかりが集まるんだよ。 類は友を呼ぶんだよ、と。 ということは、 自分はこれから一生、 ザアカイみたいな人間と 付き合い続けなければならないのだろうか。 と、そんな相談でした。 気持ち、わかるな~ と思いました。 いらんも、 特に公立の学校に通っていた頃は いつもそうしてしまっていましたから。 こいつは本当の友だちじゃないと 思っていたとしても、 他に誰もいないと 一人よりもマシか…と、 楽な方に流れてしまうんですよね。 そして、あぁ、今日もつまらなかった と、後悔をするハメになるんです。 でも、一旦そうなると、 なかなか抜け出せなくなるんですよね。 で、今日のいらんの答え。 家族は選べませんが、 友だちは選べます。 私たちは自分の境遇に縛られる必要はなく、 正しい選択をすることによって 人生の新しい一歩を 踏み出すことはいくらでもできます。 聖書の中にも、例えば 「怒りやすい者の友になるな。  激しやすい者と交わるな。」 (箴言22:24) とあるように、 友だちは選ぶべきなのです。 もちろん、 新しい一歩を踏み出す勇気を 与えてくださるのは神様ですし、 神様に頼ることによって 私たちはより正しい選択を することができるわけですが、 神様を知らない人であっても 正しい道を選ぶことはできます。 諦めずに、 お互い切磋琢磨し合える 本当の友人を探してください。 こんなんで、 答えになってますか、ね。。。