いじめの問題が後を絶ちませんね。
今朝も新聞を眺めていて、
ため息が出てしまいました。
<桐生・小6自殺>学級、担任の指導聞かず 給食中孤立招く(Yahooニュースより)
6年生くらいになると、
担任がちょっと指示を出したくらいでは
動かない場合があると思います。
そして、担任も、
まぁ、仕方ないか
徐々に指導していくほかないだろう…
くらいに考えていたのだと思います。
まさか、死んでしまうなんて
思いも寄らないことです。
だから、学校に或いは教師にばかり
責任を求めることはできないと思います。
誰だって同じような対応をするだろうからです。
今、思い返すと、
いらんが小学生の頃、
学級の中で仲間ハズレにされてしまう子が
いました。1人。
やはり女の子でした。
ただ、この子の場合は、
女の子たちからは普通に受け入れられていましたので、
上記のニュースの子とは状況が違いますが、
でも、男の子たちが、
とにかく「汚い」と言って近づきませんでした。
その子の持ち物に触るだけで
「○○菌が付いた~」と言って騒ぐのです。
転校生だったいらん。
明るくていい子だったので、
どうしてその子がそんなに汚いと言われるのかが不思議で
ある日、友だちの一人に聞いてみました。
そしたら、その子も、
多分こうだったような気が…みたいな感じで
あまり理由を覚えていないというか
知らないのです。
それなのに、一旦避けられ始めると
それがいつまでも続きます。
学年が変わっても、
中学校に進んでも、
ずっと残るのです。
いらんもいらんで、
理由が分からないということが分かっても、
え~、だったらおかしいだろ~
ということは言えずにいました。
ちょっとでもかばうような雰囲気を見せたり
普通に話していたりすると、
お前は〇〇のことが好きなんだろ~と言われるし、
もしかしたら、自分も同類にされ
仲間ハズレにされるかも知れないと思うと、
怖くて、結局他の連中と一緒になって避けてしまうのです。
何と情け無いヤツだったんだろうと反省すると同時に、
今だったら違う行動がとれるだろうかと考えると、
それこそ情け無い話ですが、
何とも自信がありません。
それくらい、
一旦できた流れに逆らって行動するということは
大変なことなのだと改めて思わされます。
いらんが小6だったのは
25年前のことですが、
四半世紀経っても
学校の中の状況というものは
そうそう変わらないのではないかと思います。
クラスの中で一旦流れ始めた噂話。
誰かが何の気なしに言い出した悪口。
それが、いつの間にか
止められない流れになってしまうのです。
校長や担任の指導力が問われるというような
言い方もされますが、
そしてそういう側面ももちろんありますが、
事は教師の目の届かないところで起きるのです。
子どもたちというのは賢いもので、
特にブラックリストに載っているような子は、
教師の目の届く場所では
完全に良い子でいるのではなく、
わざとちょっと悪い子でいることがあると思います。
完全に良い子でいると
かえって疑いの目で見られるからです。
だから、ちょっと悪いことをします。
こら!と怒られる程度です。
だから、教師もこの程度だったら
大丈夫だろうと安心するのです。
だから、指導も段階的にやればいいかと思うのです。
ところが、状況は深刻だったりするわけです。
そういうことは、
誰しも経験があるのではないかと思うのですが、
指導する側になると
忘れてしまうのかも知れません。
いじめの問題に
本当の意味で解決が与えられるためには、
教師ではなく子どもたちが変わる必要があると思います。
「現場」にいるのは、子どもたちなのですから。
E・G・ホワイトの著書の中には
次のような有名な一節があります。
「世界で最も欠乏しているものは人物である。
それは、売買されない人、
魂の奥底から真実で、正直な人、
罪を罪とよぶのに恐れない人、
磁石の針が南北を指示して変わらないように、
良心が義務に忠実な人、
天が落ちかかろうとも
正しいことのために立つ人、
そういう人である。」
(『教育』54ページ)
こういう子どもが育てられるための基盤が
学校のみならず、
家庭において社会において
整えられていかないといけないのでしょう。
言うは易し…ですけどね。
今朝も新聞を眺めていて、
ため息が出てしまいました。
<桐生・小6自殺>学級、担任の指導聞かず 給食中孤立招く(Yahooニュースより)
6年生くらいになると、
担任がちょっと指示を出したくらいでは
動かない場合があると思います。
そして、担任も、
まぁ、仕方ないか
徐々に指導していくほかないだろう…
くらいに考えていたのだと思います。
まさか、死んでしまうなんて
思いも寄らないことです。
だから、学校に或いは教師にばかり
責任を求めることはできないと思います。
誰だって同じような対応をするだろうからです。
今、思い返すと、
いらんが小学生の頃、
学級の中で仲間ハズレにされてしまう子が
いました。1人。
やはり女の子でした。
ただ、この子の場合は、
女の子たちからは普通に受け入れられていましたので、
上記のニュースの子とは状況が違いますが、
でも、男の子たちが、
とにかく「汚い」と言って近づきませんでした。
その子の持ち物に触るだけで
「○○菌が付いた~」と言って騒ぐのです。
転校生だったいらん。
明るくていい子だったので、
どうしてその子がそんなに汚いと言われるのかが不思議で
ある日、友だちの一人に聞いてみました。
そしたら、その子も、
多分こうだったような気が…みたいな感じで
あまり理由を覚えていないというか
知らないのです。
それなのに、一旦避けられ始めると
それがいつまでも続きます。
学年が変わっても、
中学校に進んでも、
ずっと残るのです。
いらんもいらんで、
理由が分からないということが分かっても、
え~、だったらおかしいだろ~
ということは言えずにいました。
ちょっとでもかばうような雰囲気を見せたり
普通に話していたりすると、
お前は〇〇のことが好きなんだろ~と言われるし、
もしかしたら、自分も同類にされ
仲間ハズレにされるかも知れないと思うと、
怖くて、結局他の連中と一緒になって避けてしまうのです。
何と情け無いヤツだったんだろうと反省すると同時に、
今だったら違う行動がとれるだろうかと考えると、
それこそ情け無い話ですが、
何とも自信がありません。
それくらい、
一旦できた流れに逆らって行動するということは
大変なことなのだと改めて思わされます。
いらんが小6だったのは
25年前のことですが、
四半世紀経っても
学校の中の状況というものは
そうそう変わらないのではないかと思います。
クラスの中で一旦流れ始めた噂話。
誰かが何の気なしに言い出した悪口。
それが、いつの間にか
止められない流れになってしまうのです。
校長や担任の指導力が問われるというような
言い方もされますが、
そしてそういう側面ももちろんありますが、
事は教師の目の届かないところで起きるのです。
子どもたちというのは賢いもので、
特にブラックリストに載っているような子は、
教師の目の届く場所では
完全に良い子でいるのではなく、
わざとちょっと悪い子でいることがあると思います。
完全に良い子でいると
かえって疑いの目で見られるからです。
だから、ちょっと悪いことをします。
こら!と怒られる程度です。
だから、教師もこの程度だったら
大丈夫だろうと安心するのです。
だから、指導も段階的にやればいいかと思うのです。
ところが、状況は深刻だったりするわけです。
そういうことは、
誰しも経験があるのではないかと思うのですが、
指導する側になると
忘れてしまうのかも知れません。
いじめの問題に
本当の意味で解決が与えられるためには、
教師ではなく子どもたちが変わる必要があると思います。
「現場」にいるのは、子どもたちなのですから。
E・G・ホワイトの著書の中には
次のような有名な一節があります。
「世界で最も欠乏しているものは人物である。
それは、売買されない人、
魂の奥底から真実で、正直な人、
罪を罪とよぶのに恐れない人、
磁石の針が南北を指示して変わらないように、
良心が義務に忠実な人、
天が落ちかかろうとも
正しいことのために立つ人、
そういう人である。」
(『教育』54ページ)
こういう子どもが育てられるための基盤が
学校のみならず、
家庭において社会において
整えられていかないといけないのでしょう。
言うは易し…ですけどね。