職場の同僚から借りた本というか冊子。
大塚史明、大友幸証『教会は何を求められたのか~宮城・岩手での取り組み』(東京基督教大学国際宣教センター編、いのちのことば社、2014年)
東日本大震災の後、「3.11いわて」と「ホープみやぎ」というキリスト教会のネットワークが岩手県と宮城県でそれぞれどのような奉仕活動を展開してきたかを紹介しつつ、牧師の視点から、伝道と地域奉仕の関連について考察した講演集です。
異なる場所で活動した2人の牧師たちが声を揃えて言っていると思ったことは、まず、教会は地域奉仕という視点を失っていたが、震災をきっかけにその大切さについての目が開かれたということです。自分たちが礼拝をするために教会に集まり、よかったら来てくださいと誘いはするものの、自分たちから出て行って何かをすることがなかったということです。
「支援活動の際、ボランティアが『教会から来ました』、『私はクリスチャンです』と言うと、それを聞いた三陸の人たちからは、『生まれて初めてクリスチャンに会った』という反応をもらうことが少なくありません。それほど、三陸や地方においては、寺や神社の存在は圧倒的なのです。
たとえば、被災後すぐに避難所となって何日間も着の身着のままの避難者を迎えて介抱したのは地域のお寺であり、神社でした。火葬すらできない遺体を引き取って土葬し、遺族を慰めたのは僧侶たちでした。地方において、寺社の存在は絶大です。
それとは対照的なのが、教会の存在感の薄さです。震災直後、すぐ教会を思い出して避難者が駆け込んで来たり、他宗教の遺族から死者の弔いを頼まれたりすることはありませんでした。言ってしまえば、教会には地域からの信頼がなかったのです。『いったい教会が自分たちに何をしてくれるのか』、『何をしているところなのか』、『そもそもその地域に教会があったのか!』ということさえ認識されてこなかったと言ってよい現実がありました。
私たち教会は神を礼拝することや教会行事、伝道の対象として人々を誘うことについては熱心でも、普段からその地域に住む人々を見て、つき合い、仕えてこなかったことに気づき、その生き方を変えなければいけないと思いました。教会が、外にいる人々の必要を知る間柄に乏しく、対話もままならなかったために、地域においては異質な空間になっていたことは否めません。それは、教会がその地域の人々を知ることもなく、一方向的に集会に誘ったり、聖書の言葉を掲載した印刷物を配ったりすることによってしか、地域に対する働きかけをしてこなかった結果ではないでしょうか。それが『教会らしさ』として地域の人々に理解されていたとしたら、いつまでたってもその地域における教会の存在感や貢献度は上がることがないと思います。
私たち教会は、神の愛を『言葉だけで伝えるわざ』に必死であっても、その愛を『行いによる仕えるわざ』で表明することには決定的に欠けていたのではないでしょうか。」(27, 28ページ)
少々長めに引用させていただきましたが、この指摘は痛烈だと思います。身につまされるとは、このことかと思います。
また、スマトラ沖地震の後、スリランカで支援活動を続けておられる牧師の言葉が次のように紹介されていました。
人間は肉体、知性、感情、霊の4つの部分によって成り立っているが、教会はいつも霊の部分だけを満たそうとしてきた。だが、感情のケア、具体的な生活向上のためのケアといったことがなされないのであれば、全人的に関わっていることにはならない。4つの側面すべてにおいて、その人の必要に応えていくということ自体が伝道なのだ、と。
今のキリスト教会が、単に言葉で伝えるだけの場所に成り下がってしまってはいないかということが問われているのだと思います。
また、2人の牧師の共通の強調点の二つ目は、教会の良さは、予算などの明確な根拠がなければ計画を進めることをしないといった、この世の常識を超えたところで信仰によって前進することができるところだということだと思いました。
必要があり、それに応えるためには、神様が必要を満たしてくださるという信仰をもって一歩を踏み出すことができること。そして、踏み出す時に実際に必要が満たされていくということ。これは、信仰者ならではのことですし、この姿勢がなければできないことはたくさんあるだろうなと思います。
建物などの物理的な必要もそうですが、両名の牧師が共通して体験しておられることは、必要な人材が時に応じて備えられるということです。
もちろんそこには健全なリーダーシップがあり、責任を取るべき人が取るという態勢があって初めて人も物も正しく動くわけですが、人の思いを超えて働かれる神様の御業を見る視点を持って働くことができるということは、信仰者の特権であろうと思います。
そして三点目は、支援活動はとりもなおさず宣教の働きだということです。
これは、信仰者としてのバランスとかそういう問題ではなく、自分の行っているミニストリーに関する理解の問題だと思います。
単に良いことをやって喜ばれた、この団体は良い団体だと評価された、そこで終わってしまうのではなく、人間すべてに共通する究極の必要に応える働きをいかにしていくかということ。その視点を失わずに働くことの大切さを認識する良い機会になりました。
大塚史明、大友幸証『教会は何を求められたのか~宮城・岩手での取り組み』(東京基督教大学国際宣教センター編、いのちのことば社、2014年)
東日本大震災の後、「3.11いわて」と「ホープみやぎ」というキリスト教会のネットワークが岩手県と宮城県でそれぞれどのような奉仕活動を展開してきたかを紹介しつつ、牧師の視点から、伝道と地域奉仕の関連について考察した講演集です。
異なる場所で活動した2人の牧師たちが声を揃えて言っていると思ったことは、まず、教会は地域奉仕という視点を失っていたが、震災をきっかけにその大切さについての目が開かれたということです。自分たちが礼拝をするために教会に集まり、よかったら来てくださいと誘いはするものの、自分たちから出て行って何かをすることがなかったということです。
「支援活動の際、ボランティアが『教会から来ました』、『私はクリスチャンです』と言うと、それを聞いた三陸の人たちからは、『生まれて初めてクリスチャンに会った』という反応をもらうことが少なくありません。それほど、三陸や地方においては、寺や神社の存在は圧倒的なのです。
たとえば、被災後すぐに避難所となって何日間も着の身着のままの避難者を迎えて介抱したのは地域のお寺であり、神社でした。火葬すらできない遺体を引き取って土葬し、遺族を慰めたのは僧侶たちでした。地方において、寺社の存在は絶大です。
それとは対照的なのが、教会の存在感の薄さです。震災直後、すぐ教会を思い出して避難者が駆け込んで来たり、他宗教の遺族から死者の弔いを頼まれたりすることはありませんでした。言ってしまえば、教会には地域からの信頼がなかったのです。『いったい教会が自分たちに何をしてくれるのか』、『何をしているところなのか』、『そもそもその地域に教会があったのか!』ということさえ認識されてこなかったと言ってよい現実がありました。
私たち教会は神を礼拝することや教会行事、伝道の対象として人々を誘うことについては熱心でも、普段からその地域に住む人々を見て、つき合い、仕えてこなかったことに気づき、その生き方を変えなければいけないと思いました。教会が、外にいる人々の必要を知る間柄に乏しく、対話もままならなかったために、地域においては異質な空間になっていたことは否めません。それは、教会がその地域の人々を知ることもなく、一方向的に集会に誘ったり、聖書の言葉を掲載した印刷物を配ったりすることによってしか、地域に対する働きかけをしてこなかった結果ではないでしょうか。それが『教会らしさ』として地域の人々に理解されていたとしたら、いつまでたってもその地域における教会の存在感や貢献度は上がることがないと思います。
私たち教会は、神の愛を『言葉だけで伝えるわざ』に必死であっても、その愛を『行いによる仕えるわざ』で表明することには決定的に欠けていたのではないでしょうか。」(27, 28ページ)
少々長めに引用させていただきましたが、この指摘は痛烈だと思います。身につまされるとは、このことかと思います。
また、スマトラ沖地震の後、スリランカで支援活動を続けておられる牧師の言葉が次のように紹介されていました。
人間は肉体、知性、感情、霊の4つの部分によって成り立っているが、教会はいつも霊の部分だけを満たそうとしてきた。だが、感情のケア、具体的な生活向上のためのケアといったことがなされないのであれば、全人的に関わっていることにはならない。4つの側面すべてにおいて、その人の必要に応えていくということ自体が伝道なのだ、と。
今のキリスト教会が、単に言葉で伝えるだけの場所に成り下がってしまってはいないかということが問われているのだと思います。
また、2人の牧師の共通の強調点の二つ目は、教会の良さは、予算などの明確な根拠がなければ計画を進めることをしないといった、この世の常識を超えたところで信仰によって前進することができるところだということだと思いました。
必要があり、それに応えるためには、神様が必要を満たしてくださるという信仰をもって一歩を踏み出すことができること。そして、踏み出す時に実際に必要が満たされていくということ。これは、信仰者ならではのことですし、この姿勢がなければできないことはたくさんあるだろうなと思います。
建物などの物理的な必要もそうですが、両名の牧師が共通して体験しておられることは、必要な人材が時に応じて備えられるということです。
もちろんそこには健全なリーダーシップがあり、責任を取るべき人が取るという態勢があって初めて人も物も正しく動くわけですが、人の思いを超えて働かれる神様の御業を見る視点を持って働くことができるということは、信仰者の特権であろうと思います。
そして三点目は、支援活動はとりもなおさず宣教の働きだということです。
これは、信仰者としてのバランスとかそういう問題ではなく、自分の行っているミニストリーに関する理解の問題だと思います。
単に良いことをやって喜ばれた、この団体は良い団体だと評価された、そこで終わってしまうのではなく、人間すべてに共通する究極の必要に応える働きをいかにしていくかということ。その視点を失わずに働くことの大切さを認識する良い機会になりました。