超教派の牧師会に参加しました。
毎回、一つのテーマを決めて
学びの時間を過ごすのですが、
今回のテーマは結婚式。
今、日本でも3組に1組が離婚をする中で、
教会員同士でも、いや、牧師であったとしても、
離婚し、再婚をする例が多くなっているようです。
で、再婚者の場合、大きく二つの方向に分かれるとのこと。
一つは、最初の失敗の反省に基づいて、
再婚生活を成功させる例。
もう一つは、あぁ、またダメか…と、
同じ失敗を繰り返す例。
教会の牧師としては、
後者のような人たちに対して
どのようなケアをしていくことができるかという
話になりました。
ところが、経験の少なさも手伝って、
いらんは、なかなか話の輪に入れません。
まぁ、お勉強だと思って聞いていましたが、
一応、自分の教会の状況もお知らせしておこうと思って、
ちょぃと発言しました。
「でも、SDAでは、
相手の不品行以外の理由で離婚し、再婚した場合は、
原則、除名なんですよね。
まぁ、実際に除名になった例は見たことがありませんが…」
と、言った途端、
え〜、まぢ!?みたいな衝撃が皆さんの間に走ったようで、
その後しばらく質問攻めに遭いました。
SDAの教会では再婚者の挙式はしないのか とか
相手が先に亡くなった場合は再婚してもよいのか とか
牧師が再婚したら辞めないといけないのか とか
相手が未信者だったら構わないのではないか とか
いろいろ。
質問に答えながら気づいたのが
(答えきれないものもありましたが)
SDAって、意外な部分でカトリックと同じ立場をとっていて、
この、結婚ということに関しても、かなり似ているということでした。
カトリックでは、離婚は、基本的に認められていません。
SDAでも、再婚がNGだというのではなく、
離婚そのものが神の御心ではないという考えです。
ただ、まぁ、百歩譲って離婚はやむを得ないとしても、
はい、次行ってみよ〜ぉ!ということで
ほいほいと再婚をするというのは、
あり得ないという立場です。
ところが、プロテスタントの他の教派は、そうではないんですね。
離婚は、まぁ、仕方がない。
世の中の流れも、そうなっていることだし。
従来の結婚の形にあまり捕われない方が良い。
で、再婚は、できるんだったら、したほうが良い。
初婚の反省を活かして、しっかり、ね!
みたいな感じなんですね。
他にも、
最近の結婚の実情に合わせて
バージンロードと呼ばずに
ウェディングロードと呼ぶようにしているとか、
同性の結婚についても
どちらかというと積極的に
認めていったら良いとか、
案外自由に考えているところがあるんだなと思いました。
どうして同じキリスト教なのに、
ここまで違うのだろうと不思議に思っていたのですが、
これは、聖書解釈における大きな違いがあるからなのだということに
後から気づかされました。
他教派の場合、
旧約聖書は今の私たちには関係が無いと考えるので、
イエス様が明言しておられないことについては
教会でそこまで重要視する必要はないと考えます。
結婚式については、
イエス様ご自身が結婚をしておられなかったわけですし、
イエス様が結婚を重んじなさいとは言っていないので、
むしろ、パウロなんかは、結婚しない方が良いと言っているくらいなので、
いわゆる教会の「聖礼典」には数えられません。
ところが、SDAの場合、
旧約聖書も含めた聖書全体の言葉が、
現代社会に生きる我々にも神様が与えておられるものであると考えるので、
結婚の制度は、
神様が人類創造の直後に自ら定められたということを根拠に
非常に大切なものであると考えるわけです。
それで、
神が合わせられたものを、人が離してはならない
という原則を重んじます。
不品行やDV等の場合を除いて、
原則、離婚は認められていません。
性格の不一致なんてのは、
ぶっちゃけ「論外」であるわけです。
だからこそ、教会で挙式を希望する方々には、
結婚とは何であるかということを
事前にしっかり学んでいただきますし、
できるだけ婚約式も行って、
婚約というのは、
本当の本当にこの相手が生涯の伴侶として
相応しい人物なのかということを
お互いに確かめる期間なのだという確認もします。
婚約破棄って、今の世の中では、
何となく犯罪のように扱われる傾向がありますが、
全然構わないことなのです。
むしろ、
付き合っている二人が別れてしまうというのと同じくらい
自然に行われて構わないことなのです。
と、そんなわけで、
聖書の解釈一つで、
自分の人生に関わる大きな出来事に対する
捉え方が大きく変わってくるということを
再認識させていただいた牧師会でした。
これは何も、
他教派が良くないと言いたいのではありません。
イエス・キリストを主と仰ぐ点においては
全く同じ信仰の兄弟姉妹ですから。
そうではなく、
御言葉に立つ教会として、
私たちのSDA教会に委ねられている使命が
何であるかということを、
もう一度確認する必要があると思うのです。
いろいろな原則が、
なし崩しになっていく現代社会において、
何を足場にして立っていくのか。
何を基準にして自分の進む道を決めていくのか。
今、本当に問われていると思います。
毎回、一つのテーマを決めて
学びの時間を過ごすのですが、
今回のテーマは結婚式。
今、日本でも3組に1組が離婚をする中で、
教会員同士でも、いや、牧師であったとしても、
離婚し、再婚をする例が多くなっているようです。
で、再婚者の場合、大きく二つの方向に分かれるとのこと。
一つは、最初の失敗の反省に基づいて、
再婚生活を成功させる例。
もう一つは、あぁ、またダメか…と、
同じ失敗を繰り返す例。
教会の牧師としては、
後者のような人たちに対して
どのようなケアをしていくことができるかという
話になりました。
ところが、経験の少なさも手伝って、
いらんは、なかなか話の輪に入れません。
まぁ、お勉強だと思って聞いていましたが、
一応、自分の教会の状況もお知らせしておこうと思って、
ちょぃと発言しました。
「でも、SDAでは、
相手の不品行以外の理由で離婚し、再婚した場合は、
原則、除名なんですよね。
まぁ、実際に除名になった例は見たことがありませんが…」
と、言った途端、
え〜、まぢ!?みたいな衝撃が皆さんの間に走ったようで、
その後しばらく質問攻めに遭いました。
SDAの教会では再婚者の挙式はしないのか とか
相手が先に亡くなった場合は再婚してもよいのか とか
牧師が再婚したら辞めないといけないのか とか
相手が未信者だったら構わないのではないか とか
いろいろ。
質問に答えながら気づいたのが
(答えきれないものもありましたが)
SDAって、意外な部分でカトリックと同じ立場をとっていて、
この、結婚ということに関しても、かなり似ているということでした。
カトリックでは、離婚は、基本的に認められていません。
SDAでも、再婚がNGだというのではなく、
離婚そのものが神の御心ではないという考えです。
ただ、まぁ、百歩譲って離婚はやむを得ないとしても、
はい、次行ってみよ〜ぉ!ということで
ほいほいと再婚をするというのは、
あり得ないという立場です。
ところが、プロテスタントの他の教派は、そうではないんですね。
離婚は、まぁ、仕方がない。
世の中の流れも、そうなっていることだし。
従来の結婚の形にあまり捕われない方が良い。
で、再婚は、できるんだったら、したほうが良い。
初婚の反省を活かして、しっかり、ね!
みたいな感じなんですね。
他にも、
最近の結婚の実情に合わせて
バージンロードと呼ばずに
ウェディングロードと呼ぶようにしているとか、
同性の結婚についても
どちらかというと積極的に
認めていったら良いとか、
案外自由に考えているところがあるんだなと思いました。
どうして同じキリスト教なのに、
ここまで違うのだろうと不思議に思っていたのですが、
これは、聖書解釈における大きな違いがあるからなのだということに
後から気づかされました。
他教派の場合、
旧約聖書は今の私たちには関係が無いと考えるので、
イエス様が明言しておられないことについては
教会でそこまで重要視する必要はないと考えます。
結婚式については、
イエス様ご自身が結婚をしておられなかったわけですし、
イエス様が結婚を重んじなさいとは言っていないので、
むしろ、パウロなんかは、結婚しない方が良いと言っているくらいなので、
いわゆる教会の「聖礼典」には数えられません。
ところが、SDAの場合、
旧約聖書も含めた聖書全体の言葉が、
現代社会に生きる我々にも神様が与えておられるものであると考えるので、
結婚の制度は、
神様が人類創造の直後に自ら定められたということを根拠に
非常に大切なものであると考えるわけです。
それで、
神が合わせられたものを、人が離してはならない
という原則を重んじます。
不品行やDV等の場合を除いて、
原則、離婚は認められていません。
性格の不一致なんてのは、
ぶっちゃけ「論外」であるわけです。
(すでに離婚をしておられる方がこれをお読みになって、
お気を悪くされたら、ごめんなさい。
あくまでも「原則」を述べていることをご理解ください。)
だからこそ、教会で挙式を希望する方々には、
結婚とは何であるかということを
事前にしっかり学んでいただきますし、
できるだけ婚約式も行って、
婚約というのは、
本当の本当にこの相手が生涯の伴侶として
相応しい人物なのかということを
お互いに確かめる期間なのだという確認もします。
婚約破棄って、今の世の中では、
何となく犯罪のように扱われる傾向がありますが、
全然構わないことなのです。
むしろ、
付き合っている二人が別れてしまうというのと同じくらい
自然に行われて構わないことなのです。
と、そんなわけで、
聖書の解釈一つで、
自分の人生に関わる大きな出来事に対する
捉え方が大きく変わってくるということを
再認識させていただいた牧師会でした。
これは何も、
他教派が良くないと言いたいのではありません。
イエス・キリストを主と仰ぐ点においては
全く同じ信仰の兄弟姉妹ですから。
そうではなく、
御言葉に立つ教会として、
私たちのSDA教会に委ねられている使命が
何であるかということを、
もう一度確認する必要があると思うのです。
いろいろな原則が、
なし崩しになっていく現代社会において、
何を足場にして立っていくのか。
何を基準にして自分の進む道を決めていくのか。
今、本当に問われていると思います。