ここしばらく心が渇いていたなと思います。
そのことにふと気が付きました。
自分に余裕が無いなということは感じていたのですが、何故余裕が無いのかということについては、単に仕事が忙しいからだろうという理由で、自分自身を納得させていただけな気がします。でも、年末年始の休みを経ても、一向に回復されない何かがありました。
海外出張に出かける飛行機の中で、音楽でも聞こうかなと思いました。普段、飛行機の中ではクラシックを聴きながらPCのキーボードを叩いたりするのですが、今日は何となく中島みゆきの恨み節が聴きたい気持ちでした。しばらく聴いて、何となくスッキリしたような感じになりました。
他の曲も聴きたくなり、何となくタッチパネルのあちこちを触っていると、“Mama Decafe 〜Love〜”というタイトルのアルバムが目に留まりました。解説文には、「出産を経験したママ・ミュージシャンたちプロデュースによる、リアル胎教の音楽アルバム。アーティストたちが妊娠中に聴いて心なごんだ曲を、ゆったりボサノヴァ調に編曲して歌唱。」とありました。
へぇ、と思って聴き始めると、おなかに赤ちゃんを抱えているお母さんの気持ちがちょっとだけわかったような気がしました。あ、こういう曲を聴いて、お母さんたちは心が和むんだ、と。
それらはいずれも、お腹の中の子を愛おしく思う気持ちが綴られた曲でした。誰かを愛おしいと思う気持ちになれると、妊娠生活自体は大変でも、心が和むものなのかなと思いました。
そして、ふと、自分の母親も、そういう気持ちになってくれたのだろうかと思いました。
その時思ったんです、あぁ、今の自分に足りなかったのは、これか、と。
それは、誰かから大事にされているという感覚。誰かから愛されているという感覚、です。
もちろん、母親からのそれはこれまでたっぷり受けてきたわけですが、究極的には、自分を超えた存在である神からのそれです。
『偽りの神々』という本を、人から紹介されて読みました。そこには偶像とは何かということが書かれていました。偶像とは、神によってしか満たすことのできない心の必要を、他のもので満たそうとする、その「他の」何かである、と。それは、財産かも知れないし、仕事の成功かも知れないし、恋愛や結婚相手、また子どもかも知れないというわけです。しかしそういうものによっては決して満たされることはないし、そのような対象にされてしまった相手にとっても悲劇である、と。
ここしばらく、まさにそうだったなと思います。なんだか満たされないものがあるのです。
そして、その渇きが嵩じてくると、人のあら探しばかりをしてしまったり、配偶者への文句が出てきたり、子どもに対しても余裕のない態度で接してしまったりするのです。道を歩いていても車を運転していても、ルールを守らない人に対してぶつくさと文句を言いっぱなしだったりもします。一緒にいる人たちの心だってささくれ立ちます。こういった負の影響はとどまるところを知らないと思います。最近、自分の周りの人間がイライラしているのが気になっていましたが、結局のところ、私自身に問題があったようです。
クリスチャンであっても、他人への奉仕の働きをしていても、やはり、自分の原点たるところをきちんと押さえていなければ、そうはなりたくないと思っていることばかりしてしまうようになりますし、そのことにどんなに抗っても、ドツボにはまっていくだけなのだと改めて思いました。
原因がどこにあったのかなと思いますが、何でしょう、やはり(自分なりに)仕事に打ち込みすぎたというところでしょうか。どんなに忙しくても、日々原点に返る時間を確保しなければならないと思わされました。
そのことにふと気が付きました。
自分に余裕が無いなということは感じていたのですが、何故余裕が無いのかということについては、単に仕事が忙しいからだろうという理由で、自分自身を納得させていただけな気がします。でも、年末年始の休みを経ても、一向に回復されない何かがありました。
海外出張に出かける飛行機の中で、音楽でも聞こうかなと思いました。普段、飛行機の中ではクラシックを聴きながらPCのキーボードを叩いたりするのですが、今日は何となく中島みゆきの恨み節が聴きたい気持ちでした。しばらく聴いて、何となくスッキリしたような感じになりました。
他の曲も聴きたくなり、何となくタッチパネルのあちこちを触っていると、“Mama Decafe 〜Love〜”というタイトルのアルバムが目に留まりました。解説文には、「出産を経験したママ・ミュージシャンたちプロデュースによる、リアル胎教の音楽アルバム。アーティストたちが妊娠中に聴いて心なごんだ曲を、ゆったりボサノヴァ調に編曲して歌唱。」とありました。
へぇ、と思って聴き始めると、おなかに赤ちゃんを抱えているお母さんの気持ちがちょっとだけわかったような気がしました。あ、こういう曲を聴いて、お母さんたちは心が和むんだ、と。
それらはいずれも、お腹の中の子を愛おしく思う気持ちが綴られた曲でした。誰かを愛おしいと思う気持ちになれると、妊娠生活自体は大変でも、心が和むものなのかなと思いました。
そして、ふと、自分の母親も、そういう気持ちになってくれたのだろうかと思いました。
その時思ったんです、あぁ、今の自分に足りなかったのは、これか、と。
それは、誰かから大事にされているという感覚。誰かから愛されているという感覚、です。
もちろん、母親からのそれはこれまでたっぷり受けてきたわけですが、究極的には、自分を超えた存在である神からのそれです。
『偽りの神々』という本を、人から紹介されて読みました。そこには偶像とは何かということが書かれていました。偶像とは、神によってしか満たすことのできない心の必要を、他のもので満たそうとする、その「他の」何かである、と。それは、財産かも知れないし、仕事の成功かも知れないし、恋愛や結婚相手、また子どもかも知れないというわけです。しかしそういうものによっては決して満たされることはないし、そのような対象にされてしまった相手にとっても悲劇である、と。
ここしばらく、まさにそうだったなと思います。なんだか満たされないものがあるのです。
そして、その渇きが嵩じてくると、人のあら探しばかりをしてしまったり、配偶者への文句が出てきたり、子どもに対しても余裕のない態度で接してしまったりするのです。道を歩いていても車を運転していても、ルールを守らない人に対してぶつくさと文句を言いっぱなしだったりもします。一緒にいる人たちの心だってささくれ立ちます。こういった負の影響はとどまるところを知らないと思います。最近、自分の周りの人間がイライラしているのが気になっていましたが、結局のところ、私自身に問題があったようです。
クリスチャンであっても、他人への奉仕の働きをしていても、やはり、自分の原点たるところをきちんと押さえていなければ、そうはなりたくないと思っていることばかりしてしまうようになりますし、そのことにどんなに抗っても、ドツボにはまっていくだけなのだと改めて思いました。
原因がどこにあったのかなと思いますが、何でしょう、やはり(自分なりに)仕事に打ち込みすぎたというところでしょうか。どんなに忙しくても、日々原点に返る時間を確保しなければならないと思わされました。