私は現在3人の子どもを持つ親です。
結婚して、最初の10年間は子どもがなかったため、子どもが与えられるということについて、いろいろと考えさせられる時間があったと、今振り返ってみて、そう思います。
子どもが与えられるということ、その子をどのように育てるべきかということについて、どのように考えるべきかについては、これは、やはり、どうしても、一つの原則が必要になってくると思います。というのは、子育てについての考え方は百人百様だからです。
特に最近のニュースを見ていて、そう思います。
目を離している間に子どもがゴリラの居場所に落ちてしまい、ゴリラが射殺された話。言うことを聞かない子どもを車から降ろし、数分後に戻ったら子どもの姿が見えなくなり、捜索願を出した話。
どちらについても、ネットでは親に対する批判の嵐。さもありなんという感じです。
ただ、私は、批判をする輩に対して、一つ言いたいことがあるんです。
それは、
親の過失をあげつらって、責めるべきではない
ということです。
イエス・キリストが言われた言葉で表現するなら、
罪のない者が、この女に石を投げなさい
ということです。
親だって人間です。24時間子どもを監視することはできません。時には、人から見れば「行き過ぎ」と思える形の躾をすることもあります。みんな、その時その時で精一杯やっているんです。」
もちろん、これは、だから、どう育てたって構わないという意味ではありません。親には果たすべき責任があります。これに関しては、誠心誠意、果たさなければなりません。
でも同時に過失もあるんです。偶然もあるんです。意図に反して、たまたまそうなってしまったということも起き得るんです。
ネット上の批判を眺めていると、どれも、過失は赦されない、偶然はあり得ない、親は常に完璧でなければならない、というふうに読めます。
じゃぁ、そう言うアナタには、意図せずとか、思いの外とか、意外にもということは、起こり得ないんですね? と聞きたくなります。
聖書によれば、子どもは皆、本来、神様の大事な大事な子ども(聖書では「魂」という言葉で表現されています)です。神様はそれを、子どもを育てたいと願う我々不完全な人間の手に委ねてくださっているのです。本当は神様ご自身がその子を育てたほうが良いに決まっているにもかかわらず、です。
表現が少々不適切ですが、我々人間に委ねられた時点で、神様はある意味、諦めておられるわけです。神様ご自身が育てるのに比べたら、絶対に劣る子が育ちますから。
でも、神様は、だからと言って我々に子どもを預けないとは言われないわけです。親として子どもを育てる喜びを体験させてくださいます。
ですから、
親としては、当然、その子を神様の子どもとして(自分の所有物としてではなく)育てなければなりませんし、同時に、神様の目からご覧になれば、私たち人間が完璧な子育てをすることはあり得ないということを覚える必要があるのです。
というわけで、
お互いの足りなさをあげつらって批判し合うのは、まったくもって意味がないことです。
だれも、100点満点の人はいないからです。
皆さん、それぞれの立場で、子育て頑張りましょうね。
結婚して、最初の10年間は子どもがなかったため、子どもが与えられるということについて、いろいろと考えさせられる時間があったと、今振り返ってみて、そう思います。
子どもが与えられるということ、その子をどのように育てるべきかということについて、どのように考えるべきかについては、これは、やはり、どうしても、一つの原則が必要になってくると思います。というのは、子育てについての考え方は百人百様だからです。
特に最近のニュースを見ていて、そう思います。
目を離している間に子どもがゴリラの居場所に落ちてしまい、ゴリラが射殺された話。言うことを聞かない子どもを車から降ろし、数分後に戻ったら子どもの姿が見えなくなり、捜索願を出した話。
どちらについても、ネットでは親に対する批判の嵐。さもありなんという感じです。
ただ、私は、批判をする輩に対して、一つ言いたいことがあるんです。
それは、
親の過失をあげつらって、責めるべきではない
ということです。
イエス・キリストが言われた言葉で表現するなら、
罪のない者が、この女に石を投げなさい
ということです。
親だって人間です。24時間子どもを監視することはできません。時には、人から見れば「行き過ぎ」と思える形の躾をすることもあります。みんな、その時その時で精一杯やっているんです。」
もちろん、これは、だから、どう育てたって構わないという意味ではありません。親には果たすべき責任があります。これに関しては、誠心誠意、果たさなければなりません。
でも同時に過失もあるんです。偶然もあるんです。意図に反して、たまたまそうなってしまったということも起き得るんです。
ネット上の批判を眺めていると、どれも、過失は赦されない、偶然はあり得ない、親は常に完璧でなければならない、というふうに読めます。
じゃぁ、そう言うアナタには、意図せずとか、思いの外とか、意外にもということは、起こり得ないんですね? と聞きたくなります。
聖書によれば、子どもは皆、本来、神様の大事な大事な子ども(聖書では「魂」という言葉で表現されています)です。神様はそれを、子どもを育てたいと願う我々不完全な人間の手に委ねてくださっているのです。本当は神様ご自身がその子を育てたほうが良いに決まっているにもかかわらず、です。
表現が少々不適切ですが、我々人間に委ねられた時点で、神様はある意味、諦めておられるわけです。神様ご自身が育てるのに比べたら、絶対に劣る子が育ちますから。
でも、神様は、だからと言って我々に子どもを預けないとは言われないわけです。親として子どもを育てる喜びを体験させてくださいます。
ですから、
親としては、当然、その子を神様の子どもとして(自分の所有物としてではなく)育てなければなりませんし、同時に、神様の目からご覧になれば、私たち人間が完璧な子育てをすることはあり得ないということを覚える必要があるのです。
というわけで、
お互いの足りなさをあげつらって批判し合うのは、まったくもって意味がないことです。
だれも、100点満点の人はいないからです。
皆さん、それぞれの立場で、子育て頑張りましょうね。