震災を経験した方々への特に心的サポートということを考える際に、いつもふと思うことは、戦後の日本がどうだったかということです。
各地で大空襲があり、原爆が落とされ、沖縄のような「悲惨」という言葉では表しきれないくらいの状況に置かれた土地もありました。父や兄は戦地へ駆り出され、女性や小さな子どもたちは疎開で見知らぬ土地に行き、家族がばらばらになったまま二度と会えなかった人たちもたくさんいたわけです。
しかし、日本各地が「被災」した状態でしたし、現在のような心的ケアといった視点も無かった時代ですから、ある意味、みんな放ったらかしだったはずで、子どもたちの心の傷は、どうやって癒やされていったのだろうと思います。
他ならぬ私の父親も戦中派ですので、父の人間形成において戦争が及ぼしたところの影響は大きかったと思います(別に父の人間性に欠陥があるという意味ではありませんが、戦争を経験していなかったら、もっと違う人間になっていただろうと思うという意味です)。現在の日本社会は、そういう人たちが中心になって造り上げてきたものであるわけです。今になって様々な歪みが出てきていると言えなくもありませんが、でも他の国々がうらやむほどの発展を遂げてきたということを否定する人はいないと思います。
戦争と自然災害とでは、根本的に質が違うのかも知れません。しかし、住む家を追われ、生活を奪われた人たちが、復興を目指して歩んで行くというプロセス自体は同じなのではないかと思います。
だから、震災を経験した人たちに対するケアが必要ないとは言いません。ただ、支援を行なう上では、何を問題とするのか、どこを(ゴールとして)目指して支援を行なうのかというそもそも論的なところを明確にすることが不可欠だと思います。
単に、大変なことを経験し、まだ元の生活に戻れていないから、コミュニティーに歪みが生じ、不登校の子どもたちが増えているので支援が必要だと言うだけでは、支援が形骸化してしまうことを危惧しています。
各地で大空襲があり、原爆が落とされ、沖縄のような「悲惨」という言葉では表しきれないくらいの状況に置かれた土地もありました。父や兄は戦地へ駆り出され、女性や小さな子どもたちは疎開で見知らぬ土地に行き、家族がばらばらになったまま二度と会えなかった人たちもたくさんいたわけです。
しかし、日本各地が「被災」した状態でしたし、現在のような心的ケアといった視点も無かった時代ですから、ある意味、みんな放ったらかしだったはずで、子どもたちの心の傷は、どうやって癒やされていったのだろうと思います。
他ならぬ私の父親も戦中派ですので、父の人間形成において戦争が及ぼしたところの影響は大きかったと思います(別に父の人間性に欠陥があるという意味ではありませんが、戦争を経験していなかったら、もっと違う人間になっていただろうと思うという意味です)。現在の日本社会は、そういう人たちが中心になって造り上げてきたものであるわけです。今になって様々な歪みが出てきていると言えなくもありませんが、でも他の国々がうらやむほどの発展を遂げてきたということを否定する人はいないと思います。
戦争と自然災害とでは、根本的に質が違うのかも知れません。しかし、住む家を追われ、生活を奪われた人たちが、復興を目指して歩んで行くというプロセス自体は同じなのではないかと思います。
だから、震災を経験した人たちに対するケアが必要ないとは言いません。ただ、支援を行なう上では、何を問題とするのか、どこを(ゴールとして)目指して支援を行なうのかというそもそも論的なところを明確にすることが不可欠だと思います。
単に、大変なことを経験し、まだ元の生活に戻れていないから、コミュニティーに歪みが生じ、不登校の子どもたちが増えているので支援が必要だと言うだけでは、支援が形骸化してしまうことを危惧しています。