一週間くらい前のこと。イクメンを推奨するNPOの代表の人がラジオに出ていました。
具体的に何か貢献することができなかったとしても、子育てをする母親である妻の苦労を理解し、仕事が終わって帰宅したら、妻の話に耳を傾けたり、感謝の言葉かけをしたりするだけでも違うということでした。
また、子どもとの関わりは、その子が3歳になるまでが勝負とのこと。それまでにその子との関係をしっかり作っておくと、ティーンエイジャーになってからも、父親と話をしてくれる子になると言っていました。
インタビューをしているパーソナリティが、自らの生活を振り返り、反省していました。つい言い訳をしたくなる中で、自分の非を素直に認めることができるその人は、本当の意味で強い人なのだと思います。
ただ、そういったことをする動機が、んー、どうなのかなーと思いました。
というのは、妻や子との良好な関係づくり、それ自体は良いことなのですが、それを今しておくことの最終的な目的が、15歳になった子どもとも話せることであったりとか、子どもたちが巣立った後の妻との関係を良好に保つことであったりとか、そういうレベルに終始していたからです。それっって、ちょっと目的が違わないだろうかと思ったのです。
3歳までの子どもとの関わりが勝負なのだとしても、毎日の妻への声かけが大切なのだとしても、将来への投資として、今、子どもと関わろうと思いたくはありませんし、やがて来るべき日を充実したものにするために、今、妻に労いの言葉をかけたりしたくはありません。
よく耳にする言葉で、「せっかくこれもあれもしてあげたのになー、こいつら全然覚えてないんだもんなー」という嘆きがあります。しかし、将来覚えていてもらうために、そしてあの時はありがとうねと感謝をしてもらうために、今、子どもと関わろうとしているのであれば、それは動機が間違っていると言わざるを得ないと思います。
そうではなく、今、そこにいる一人の人間である子どもとの関わりが嬉しくて、今という時間が与えられていることが感謝で、時間がある限り一緒にいたいと思う。奥さんの存在がありがたくて、少しでも疲れが取れればと思って、声をかけたり、何か少しでも手伝ったりしてあげたいと思う。そういう、今を大切にする姿勢こそが動機であるべきであって、そうでないものは結局のところ、打算であり利己心であって、何ら相手を益することではないものであるということを覚えておく必要があるのではないか。
自分ができているかどうかは棚に上げて、そんなこと考えてみました。
具体的に何か貢献することができなかったとしても、子育てをする母親である妻の苦労を理解し、仕事が終わって帰宅したら、妻の話に耳を傾けたり、感謝の言葉かけをしたりするだけでも違うということでした。
また、子どもとの関わりは、その子が3歳になるまでが勝負とのこと。それまでにその子との関係をしっかり作っておくと、ティーンエイジャーになってからも、父親と話をしてくれる子になると言っていました。
インタビューをしているパーソナリティが、自らの生活を振り返り、反省していました。つい言い訳をしたくなる中で、自分の非を素直に認めることができるその人は、本当の意味で強い人なのだと思います。
ただ、そういったことをする動機が、んー、どうなのかなーと思いました。
というのは、妻や子との良好な関係づくり、それ自体は良いことなのですが、それを今しておくことの最終的な目的が、15歳になった子どもとも話せることであったりとか、子どもたちが巣立った後の妻との関係を良好に保つことであったりとか、そういうレベルに終始していたからです。それっって、ちょっと目的が違わないだろうかと思ったのです。
3歳までの子どもとの関わりが勝負なのだとしても、毎日の妻への声かけが大切なのだとしても、将来への投資として、今、子どもと関わろうと思いたくはありませんし、やがて来るべき日を充実したものにするために、今、妻に労いの言葉をかけたりしたくはありません。
よく耳にする言葉で、「せっかくこれもあれもしてあげたのになー、こいつら全然覚えてないんだもんなー」という嘆きがあります。しかし、将来覚えていてもらうために、そしてあの時はありがとうねと感謝をしてもらうために、今、子どもと関わろうとしているのであれば、それは動機が間違っていると言わざるを得ないと思います。
そうではなく、今、そこにいる一人の人間である子どもとの関わりが嬉しくて、今という時間が与えられていることが感謝で、時間がある限り一緒にいたいと思う。奥さんの存在がありがたくて、少しでも疲れが取れればと思って、声をかけたり、何か少しでも手伝ったりしてあげたいと思う。そういう、今を大切にする姿勢こそが動機であるべきであって、そうでないものは結局のところ、打算であり利己心であって、何ら相手を益することではないものであるということを覚えておく必要があるのではないか。
自分ができているかどうかは棚に上げて、そんなこと考えてみました。